中津川の橋(盛岡市街地編)

本文へ移動
JunSoftトップへ移動

盛岡の街は、北上川,雫石川,そして市中心部を流れる中津川とともに栄えてきました。このページでは中津川に架かる橋を紹介しています。綱取ダムより上流の橋 は別のページに掲載しています。


綱取大橋つなとりおおはし

綱取大橋は地形条件及び断層を含む地質条件によって、半径500mの円曲線区間に位置している。橋脚は52mと施工時点までの県内橋梁では最大の高さである。橋脚の施工については滑動型枠工法を採用した。この工法はコンクリートが時間とともに硬化する性質を利用したもので、コンクリートが自立できる強度に達したら、型枠を上方にスライドさせ(スライド速度=0.33m/hr)、連続的にコンクリートを打設する工法である。路線名-市道天神銭掛3号線。195m×10m(歩道1.5m×2)


無名橋

いままで綱取ダムまでの橋をすべて載せていたと思っていたが、掲載後に偶然見つけたのであわてて追加した。綱取ダムに上る道路ではなく、ダム直下にある二ツ森公園へ向かう道路を走らないと見つけることはできない。中津川の橋を掲載している他のサイトにも載っていないので、この橋を知っている人はそう多くないだろう。私が知っている限り中津川で一番簡素な橋で、私設橋と思われる。丸太2本分の幅しかなく肩幅よりも狭い。それほど高いわけでもないが、足元を見ながらでないと渡れないため、中津川の急な流れが目に入ってしまい恐怖感が増す。微妙に傾いていることもあり、渡っているうちに頭がクラクラしてくる。


水道橋すいどうばし

盛岡の水道は東北でも一番古い。その盛岡水道の生誕から今までの歴史をすべて知っているのが近くの米内浄水場。場内にある盛岡水道記念館には水道事業が始められた当時から現在までの水道にまつわる面白い品々がある。またこの浄水場はヤエベニシダレヒガンザクラの名所で、年間8万人もの人が見学に訪れている。盛岡市と岩泉町との境から流れてきた中津川の景色も、この辺りから住宅地へと変化してゆく。


浅岸橋あさぎしばし

昭和43年5月竣功。 中津川は綱取ダムから始まっていると思っている盛岡市民も多いが、実は中津川の源流は綱取ダムのはるか先、JR山田線浅岸駅よりもまだまだ先である。浅岸駅からずいぶん離れえているにもかかわらず、なぜこの橋名なのか興味深いところだ……と、これまで書いていたが、ここから玉山村・岩泉町までずっと浅岸という町名が続くらしい。


中津川橋なかつがわばし

山岸小学校に通う子供達のために架けられた橋と思われるが、この地区に多く住むご老人もよく利用している。これまで車を運転できない人は対岸まで行くのに不便を強いられており、まさに「近くて遠いご近所さん」であったが、この歩行専用橋が架けられてからは気軽に遊びに行けるようになった。地域の活性化につながる橋である。背後のなだらかな山々にマッチした、ゆるやかなアーチが特徴。平成8年10月竣功で、私が盛岡に住んでいた頃はこの橋はなかった。


山賀橋やまがばし

かなり老朽化が目立っているものの、地域住民に欠かせない橋となっている。山岸と加賀野を結ぶ橋で、山賀橋の“山”は山岸、“賀”は加賀野からとられているのだろう。この橋を使って加賀野から岩手大附属中学前に抜ける裏道は、中央公民館付近の渋滞を嫌う山岸住民がよく利用している。昭和47年5月竣功。


文化橋ぶんかばし

文化橋の西隣りに、御蔵米を蓄えていた蔵を改造した建物を利用している中央公民館がある。ここには藩政時代の剣や槍、鎧、甲のほか庶民の生活用具が展示されている。また、当時の商家がそのまま移築されていて興味がつきない。南部藩の御薬園-つまり薬草の栽培所だった姫神山を背景にした庭園は四季折々の色彩豊か。画像左手に写っているのは東大橋。


東大橋ひがしおおはし

国道4号線のバイパス開通にともない、文化橋と並んで昭和44年に完成した。中津川に架かる橋の中で、もっとも交通量が多いと思われる。この橋の西端から遊歩道が整備されている。川辺に降りて川音を聞きながら散策するのもよい。撮影時は橋脚補強工事中で、このような味気ないアングルから撮影せざるを得なく残念である。


富士見橋ふじみばし

昭和十年代までは風情のある木橋として知られていた。一時橋がなかったが、そのあと、架けかえられてモダンな歩行専用橋に生まれかわった。初夏ともなれば、岸辺にカキツバタが乱れ咲く。橋上から上流を見ると鯨の背のような巨大な石がある。ダンゴ石と呼ばれているが、盛岡城築城のときに運びこまれた石材とも言われている。


上の橋かみのはし

中の橋、下の橋とともに昔から「盛岡三橋」と呼ばれてきた。慶長年間(江戸時代初期)に盛岡築城と平行して架けられた。欄干を飾っている18個の青銅製の擬宝珠(ぎぼし)はその当時のもので、京都の三条大橋のものと比べても決して見劣りしない。擬宝珠は天皇のいるところにしか置けないが、特別のはからいでつけられたもの。これほど古い擬宝珠が残っている橋は日本で3箇所(盛岡 上の橋,盛岡 下の橋,京都 三条大橋)のみで、国の重要美術品に指定されており、盛岡の観光名所の1つとなっている。以前、ムクドリが巣を作ってしまい、擬宝珠と巣のどちらを守るか議論になったことがある。結局ムクドリが自ら出て行ったと記憶している。


与の字橋よのじばし

もとは旧第一銀行がかけた橋なので「銀行橋」と言われていたが、洪水で流されてしまい、紺屋町消防の「よ組」がかけ直したことから「与の字橋」と言われるようになった。橋際にはいまでも大正時代の消防番屋が残されている。盛岡名物のワンコそばの老舗があるのもこのあたり。


中の橋なかのはし

南部藩(岩手県)は馬の名産地。そして毎年6月15日に行なわれるチャグチャグ馬ッコは、いわば馬に感謝する祭。100頭を越す飾りたてた馬が、鈴を「チャグチャグ」とならしてにぎやかに行進する。そして途中、中の橋の河原で休憩かたがた「洗足の儀」が行なわれ、身を清めた一団は八幡宮に向かう。またここは季節を問わず、様々なイベントの会場となり、市民に親しまれている。写真奥に写っている赤レンガの建物は岩手銀行中ノ橋支店で、国の重要文化財に指定されており、石割桜と並ぶ盛岡の観光名所となっている。


毘沙門橋びしゃもんばし

もともと毘沙門橋は三大橋(上の橋、中の橋、下の橋)が洪水で落橋したものの竜財を拾い集めて造ったもので、いわば三橋の分身である。これぞまさしく、三橋を守った守護神の橋であると人々は思った。守護神の橋をこのまま放置しておくことは必ず天罰が降るものと思え。此処に近き将来必ず三橋の守護神として国の予算を頂き無名橋改め橋名のある橋を建設致したい。そして橋供養を行い、これまでの数々のご尽力と、ご守護に感謝の意を表する。橋のない川端で無名橋跡に人々はぬかずいたのであった。毘沙門橋の右岸橋台より約5m程下流にある毘沙門淵と言われていた淵が橋名の由来になったという説が、大方の人たちの推論を占めているようである。


下の橋しものはし

上の橋に次いで、慶長17(1612)年に架けられたのが最初。ここにも慶長年間につくられた擬宝珠(ぎぼし)がある。もとは上の橋や中の橋に取り付けられていたものだが、洪水で流出した後、河原などから発見されたものを集めて下の橋に取り付けたものだ。旧5000円札の顔・新渡戸稲造の生誕の地も下の橋にほど近い。橋のたもとには宮沢賢治が使用していた井戸が残されている。


川原橋かわらばし

ヨーロッパの運河などによく見かける、はね橋風のデザインが面白い。上の橋、下の橋のような歴史と由緒ある橋とは、また趣きが変わり、近年建築される橋のデザインは、ひとつひとつが古い橋との調和をとりながら、独自の味わいを見せてくれる。川原橋もそんな橋のひとつ。河岸を散策しながら、橋のひとつひとつを味わうのも一興。


御厩橋おんまやばし

そのデザインと色調の良さから、昭和60年度の「手づくり郷土賞」を受賞した。昭和58年に架けかえられた比較的新しい橋。なだらかな曲線の欄干と街灯、橋本体と歩道とが一体的にデザインされ、黒を貴重にトータル・コーディネートされている。古い町に新しさが見事にマッチした例だ。


今回は綱取ダムから中津川最後の橋までご紹介しました。これを書いた当時は、中津川は綱取ダムから始まっているものと思っていましたが、10年以上後で中津川がさらに上流から続いていることを知り、綱取ダムから浅岸駅までの橋 も掲載しました。マイナーな橋が多く文献を集めることができませんでしたが、興味があればご覧ください。

このページは、1991年に作成した「中津川 橋の話」に加筆・修正したものです。今回WEBに公開するにあたり、「当時高校生だった私がこのような文章を書けたとは思えない」との疑問が湧いています。県立図書館で書籍を調べたことは覚えていますが書名を覚えおらず、文章を引用していた可能性もあります。ご不満に思う著作権者様がいらしたら、ご意見・ご要望 でご連絡ください。すぐに修正します。